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鈴鹿回生病院 附属クリニック
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ドクターズリスト

 

 

三重県四日市市出身です。と言っても四日市市で最も田舎の、東員と菰野との市境をなす保々地区で生まれ育ちました。小さい時は落ち着きがなかったようで、あらゆる「悪戯」をして両親を困らせていたようです。我が家には昔ながらの蔵があり、中は重厚な扉と壁に囲まれた真っ暗闇でネズミの住処。両親の私に対するお仕置きは、その蔵への監禁でありとっても恐ろしかった記憶があります。現在のようなコンピューターゲームはなく、いつも外で泥んこまみれになって遅くまで友人たちと遊んでいました。当時はソフトボールが全盛期であり、幸い球技はなんでも得意だったので、4番サードのポジションを頂きました。その傍ら、当時小学校の間はみな珠算と書道を習う習慣があり、私もその波に乗り、珠算:初段、暗算検定:初段、書道5段まで頑張りました。

昔から、人との付き合いが大好きであり、幼心に人を相手にする職業に憧れていました。小中学校では教師を夢見ており、進学した四日市高校では弁護士か医師という職業を夢見ました。親から授かった名前「誉宏:やすひろと読みます」に負けない職業を考えるようになり、理数系が得意科目であったため、高校2年生時に医学部進学を目標に掲げました。私ごとですが一つ上に兄(現在は四日市でさいとう歯科開業)がおり、県外の大学歯学部へ進学したため、必然的に私は地元のみに制限され、しかも私立大学は両親からダメだしにあい(受験すら認めてもらえず)、地元の国立大学である三重大学医学部一本の勝負に出ました。当時マークシート方式の共通一次試験(1,000点満点)があり、マークシートは苦手で目標から100点も足らずボーダーラインを切ってしまいました。涙ながら河合塾の申し込み書を横に置き二次試験での逆転を誓い、一ヶ月間毎日20時間勉強し、運よく現役合格できました。あの一ヶ月がなかったら私は今この鈴鹿回生病院にいなかったと思います。

大学卒業後、当時は現在のような研修医制度はなく、直ちに大学病院のどこかの科に入局しなければなりませんでした。学生時代に済生会松阪総合病院に救急実習に行った際、循環器内科の井阪先生(現村瀬病院院長)の姿に憧れ、第一内科の門を叩きました。外科系は高校時代の器械体操で腰椎分離症を患い、長時間の手術は困難と考え諦めました。循環器内科は急性期治療の花形であり休日夜間の呼び出しもままならないですが、自分の手で患者さんを救命でき、一生患者さんに寄り添える科でもあり、選択に後悔はしておりません。

趣味は、スポーツ・格闘技観戦とゴルフです。ゴルフは練習なしで90台維持を目標にしています。また学生時代サッカーをしていたため、現在鈴鹿回生病院フットサル部の主将として月1回の部活動で汗を流しています。

年齢がかさむにつれ、自身の体力維持を意識するようになり、運動不足の解消を心がけようと思います。また接遇委員長の立場から、病院の接遇面の更なる向上に貢献したいです。

循環器病のリスクとなる生活習慣病や、循環器疾患全般(虚血性心疾患・心不全・不整脈など)です。病状・全身状態・社会的背景など総合的に判断してベストな治療法を一緒に考えます。

中学ではソフトテニス部、高校では器械体操部に所属し、大学では団体競技をやりたくてサッカー部に所属していました。決して女子マネージャーに勧誘されて入部したわけではありません(笑)。大学の授業出席は最低限とし日々サッカーに明け暮れていました。いわゆる体育会系でチームワーク、上下関係の厳しさ、芸の極みをご指導頂き、医療人となった今でもその指導が非常に役に立っています。


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